叔父のカフェオレ

とうとう叔父に言った。

 

 

その日私はバイトの帰りで、買い物をしてから家に帰った。

その前日私は母に全財産から3分の2のお金を貸した。

 

叔父は仕事を辞め、3ヶ月無職をし、仕事を始めた。週払いの仕事で肉体労働だった。給与は少ないようだった。

給料日には夜10時半に帰ってきた。パチンコに行って負けてくるから。

たまに勝つと、コンビニで食事を買い、祖母にタバコをあげていた。

負けた日や給料日以外の叔父は、冷蔵庫の中身を好きに使って料理した。

私は家に金を出さない叔父が憎く、叔父が料理をする音が憎く、叔父が階段を降りる音が憎く、叔父のスマホから流れる女性グループの楽曲も憎かった。

韓国のなんか脚が長い女の子たちのグループでした。脚が。脚か。私のは足って感じですね。脚はいいね。

 

その朝私は空っぽの冷蔵庫を見て激怒していた。

祖父はそれを聞いていて、私が踵を返した頃に、今日は誕生日なのにと言った。その日は私の誕生日だった。

 

「今日は給料日なの?」

叔父は戸惑っている。ちがうと答える。

「じゃあいつ給料日なの?」

叔父は答えない。目をそらしたのでとんな顔をしていたのかは知らない。

そこからは《堰を切ったように》であった。堰って何。

 

「今日わたしは買い物してきた。ママも買い物をしてくる。じいじも給料日には買い物をしてくる。叔父さんはいつ買ってくるの。叔父さんはなんで冷蔵庫を開けるの。わたしは買い物をしてきた。わたしだってお金がない。もうこんなのはいやだ」

 

仕事に行った翌日の母に半額請求するくせに、わたしはこんなことを言った。

 

 

昨日、冷蔵庫を見るとコーヒーと牛乳が2本ずつ増えていた。

これっぽっちでもわたしの心は傷んだ。軽くなるのではなく傷んだ。

卑怯なわたし、子供ぶるわたし、偉いねと言われたいわたしが言った言葉の結果がわたしを責めている。

 

 

ツライと思いながら、カフェオレを作る。

お前になにが言えるんだ、カフェオレが囁く。

ツライと思いながら、カフェオレを飲んだ。

カフェオレだいすき

 

おわります

 

 

7月2日 追記

この出来事あたりに書いた下書きがツイッターに残っていて、気に入ったので貼っておきます

 

       お母さんや叔父や祖父や叔母は皆「貧乏なんだからお互いに迷惑かけあってやっていくしかない」と思っていて、人の貧乏にキレることは多々あれど、生命に直結すること(食べ物)に関してはおどろくほど大らかなので

 

       私は食材を買ったらお母さんに半額請求する上に叔父にブチ切れ祖父に八つ当たりするのに、祖父は叔母に金を借りて食材を買い「冷蔵庫にあるものはなんでも食べていいんだ」と言う

 

         

 

       

         

他人の写真

津原泰水という作家を知っていますか。

わたしは知っていて、まぁ好きなのですけど、そのあたりの話をします。

 

わたしは猿渡シリーズ?豆腐伯爵シリーズ?という彼の作品群が好きで、そこから彼を知りました。

中学二年の頃でした。

例によってBLを感じたからです。

 

そんな私が高校に進学します。結局中退しますけど。

そうすると入学してわりとすぐに文化祭が始まりました。

どこもそうだと思いますが高校一年の文化祭とは特に何かあるものではありません。

催しもよくわからないものでした。

二年三年になって初めて「お化け屋敷」や「クレープ屋」なんかが出来るのでした。

 

そんな高校一年の文化祭の中で、私にとって一番の思い出は「古本市」です。

何と言っても安かった。ブックオフなんて目じゃないほど安かった。

わたしは興奮のあまり10冊ほど買い込み帰宅時にはなかば仰け反りながら、意識を失いかけながら、道中を本と共にしました。

 

その買った10冊の本のうちの一つが津原泰水作「ブラバン」でした。

ブラバンについては事前にあらすじを知っていましたが、青春小説に興味のない私が手を出すことのないだろう本でした。

ただ安さにつられて買いました。10円とかでした。

 

家に帰って買ってきた本を並べ悦に浸り、どれから読もうか・日焼けしてる本ってやっぱやだなと思っていると、何かが落ちました。

しおりかチラシかと思いました。

しかし、それは写真でした。

どこかの中学校の、クラスの、遠足の、集合写真でした。

 

見た瞬間わたしはなんとなく背筋が凍って、君悪く思いつつも、「なんだか小説みたいじゃあないか」などと思いました。

わたしはこういう体験が好きで、ロマンチストなんですね。

気色悪く思われますかね。どうでしょうね。

 

その写真を載せたいのですが、いろいろと恐ろしいので止めます。

ただ、この集合写真を「ブラバン」に挟む意味や、古本市に寄付した意味、その集合写真の誰もが気怠げで視線すらあっちこっちに向いている全てが、いい感じに小説っぽく、わたしの思い出を彩っております。

 

備考  小説ブラバンは青春部活小説なので、眩しすぎ、つらく、読了には至りませんでしたことを書き添えます。

 

 

おわりです

偉大なる母の日

昨日お母さんに一万円貸した。

 

 

お母さんは夜の蝶をしたりパチプロになったり彼女になったりママになったりして暮らしている。

ここのところはパチプロと彼女の二交代制で、わたしと弟は微かなママにコンビニのおにぎりを買ってもらっていたり、ストックされた食材で不可ではない料理を作って食べたりしていた。

 

昔から、「お金がなくなったお母さんはとても惨めで可哀想な上にとても怖い」とはよく言ったもので、本当にそうだった。

中学生のわたしや高校生のわたしはたくさんの買ってもらった漫画や、バイト代と交換した漫画を売って、お金にした。

わたしはBLオタクでBLを感じた漫画や胸熱を感じた漫画や、サブカルって言われる漫画とかが少し好きで、集めていたけど、その量はあまり増えず、私の机の下の三段の棚と壁と床15センチからはみ出たことはない。

 

お金のないお母さんはそれはそれは恐ろしく、家を出て行くとか死ぬとか働かないとかわたしに養えとか、そのようなことを言う。

本人が正しいと思っていることは奇妙なパワーでこちらの耳にも正しいように届けられることが多いので、みんなも気をつけてほしい。わたしは15年単位気付かなかった。

 

そういうわけで一万貸した。

なんか最近はどうでもよくなってきて、ついに「もう死んでいいよ、ママが死んだらわたしも死ぬから、そうしよう」と言った。

ママは「本当に死にたいわけないじゃん」と言った。

嘘でしょ?死にたくないのかよ?人間って死にたいもんじゃないのかよ

 

 

今月だけで十万円貸した。

先日ツイッターで「十万円貸した」と言って泣いていたが、本当は直前にビビってしまい九万円しか貸していない。ごめんなさい。

 

なんでこうもお金がないのにホイホイとお金を貸してしまうのかと言うと、《お母さんが喜ぶから》で全てが丸く収まるのだから本当にくだらない人間になったなと思う。

お金を貸せるわたしが母にとって価値ある人間になれていると最近気付いたので、ヤバイ。気付くことは偉いことだけど、その反動は年単位で襲ってくる化け物みたいなやつだと知っている。

 

お母さんへ お母さんってなに

 

 

母の首

《わたくし、母の首を締めたことがあります。錯乱した振りをして、首に手をかけました。憎かった。なぜ憎いかには目を背けていた。口からは出まかせで罵りました。手の平が首に触れた時。細く筋張った、皮の弛み。老人のそれでした。私の手首を掴む母の手も、たしかに年を重ねた手でありました。このまま殺せる。そう思いました。怖くなりました。怖くなって、でも手を放すのも恰好が付かないと、母の首に手を掛けたまま思いました。手に力を入れないまま、私は過呼吸を装い、胸を掻きむしって、母は弟を呼んでいました。(2013年9月24日)》

 

非公開にしたBLサイトの日記で自分のためだけに日記を書いていたことがあり、その時のものです。

懐かしい。

何がきっかけかなんてとうに忘れていて、ツラさ(?)だけで書き進めた気がする。

私は不健康人間らしさがたっぷりなので、冬になると日光が足りないので精神が終わる。

その上冬は成熟した学内が完成しかけていて、精神が終わる。

なので夏は脱水しながらも元気になにか書きたくなります。

これを書いたのは初めて男のことを言ったときか、生活の愚痴か、私の生活か。何度も同じようなことをしたのでどれなのか覚えていない。

当時は言えば変わると思っていたけど40過ぎて人は変わらない、人も死んでないし、環境も変わってないし。

 

これとは違う時に、ひどい剣幕で追いかけ回されて、着ていたTシャツが破れ乳がボロンと見えたことがあった。夏の家ではノーブラだから。女の子だから。

追いかけて止めに来た(?)叔父に見られたと思う。泣きながら逃げながら、「母は私を殴ろうとしているのに、私は母を殴れない」ことをその時は考えていた。

こんなことも懐かしく思い出であり感傷なので、人間です。生。

堕ろす

 

堕ろすという言葉に触れると、途端に腹が痛くなる。高校二年の時に見た保健のビデオが一気にフラッシュバックする。狂気的なフォルムをした堕胎器具は、某漫画のセリフを借りれば「命を刈り取る形」をしていた。そのビデオは古いビデオで、古い話し方をする年配の女医が、模型を使って堕胎手術を演じて見せた。私は目を見開いたり眉を顰めたりして見ていた。背けたくなった顔は動かなかった。私は席の最前列だったので、周囲のクラスメイトたちがどのように見ていたのかはわからなかった。テレビの目の前にいる自分に注目が集まることは嫌だった。プラスチックの模型と私の子宮は悍ましいほど丁寧に共鳴していて、吐き上げそうな気分だった。私の席は一番前で、テレビに近く、視界を画面が埋めていた。後ろの席なら、誰かしらの頭が目に入って思考がいろいろな方向に伸びたかもしれない。けれど私の前に遮るものはただの一つも無く、頭の中は"それ"でいっぱいになってしまっていた。腹を鉄の棒で掻き回される感覚とは。腹に穴が空く瞬間とは。確かに在った未熟な命を潰すとき、その思考は私に深淵より深く遺されるだろうことを。

そうして考えてから、母のことを思い出す。私と、弟との間にいた、流れた子。母はしっかり戒名を覚えていた。私は忘れてしまったその名前。私の中でその先の弟の想像はいつまでも胎児のままだ。話を聞いた時、何故か泣き出した私に、母はなんであんたが泣いているのよと苦笑して言った。あまり見ない表情だった。母と目が合い、ようやく目に膜が張っているのを知るのだった。

 

昔(2014年7月27日)書いた日記が出てきたので、載せました。

 

 

里芋を転がす日々

一昨日は同い年の従妹に会って、話を聞いた。

従妹と言ってもほとんど友人で、一際長い付き合いの友人である私たちは、血縁を利用してお互いに他には言えない(と思い込んでいたこと)を言い合ったりしていた。若い。

ひと月振りに街で会った彼女は、以前よりも更に優柔不断になっていて、私は何度も心のブランコに足をかけた。帰りたさ。

冗長で堂々巡りな昼食を決めるための会話がパルコの入り口で15分続いた。

街の私はキレない。なぜなら可愛いから。

そのあとは従妹の意見通りの店に行った。まぁまぁだった。

 

 

 従妹と話をした。

 やはり彼女はいままでより少し具合が悪いようだった。彼女の母は精神科に通院している。一度オーバードーズで搬送されたことがあり、中学生だった私も駆けつけた。

 彼女は病院の前のコンビニに居て、頼りない表情をしていた。(彼女が頼り甲斐のある表情をしているところを見たことがない気もする)

  私はといえば「あぁ本当にこの“家”ったら!」と悲劇を気取っていて、笑いながら「大丈夫?」と声をかけていた。最悪!ウケる!

 彼女はその母と一緒に通院することにしたと言った。

 自分で病名を尋ね、医者はそれに答えたらしい。ふうん。

 帰り際「本当、私、あなたに嫌われているとか考えちゃっててすごい今日来たくなくて、あぁでも、私のこと好きだよね?」なんて言われて、「好きだよ」と返した。

本当は「違う」と思った。「あなた違う、あなたじゃない」と思った。けどそもそも全部エゴっぽくて、また一人で悲しくなって、帰り道めちゃめちゃブランコを漕いで、疲れたなあと言いながら布団にこもった。

 

そういう一昨日の話を思い出しながら、今日は家で1キロの里芋を煮っころがしにした。疲れた。

煮っころがしながら、情けなくて、私も美味しくなりたいと思った。

残ったのは下手くそな煮っころがしだけです。

好きでいたい